温故知新―。故きを温ねて新しきを知る。その言に習えば、鍛造の温故は刀。平安の世に日ノ本に渡り、技は磨かれ、現世の球打ち道具の製法となる。然れど、技は異する。其の異する技を球打ち道具に模すは、鍛造の限界への挑み。和の国の誇りを異国に。匠の神髄が始まる。
神髄一 変わらぬ技法 苛立ちへの挑み
国産発祥の地、兵庫県神崎郡市川町。最古参の共栄ゴルフ工業。農耕が主の里で、若者の仕事場を創った。昭和三十三年四月に共栄ゴルフ器具製作所として歩み始め農機具を造るが、時代の流れと共に球打ちの道具を造る。その技の元を辿れば、刀に帰す。
それが球打ち道具の鍛造の祖。只、球打ち道具の鍛造の技は半世紀変わることなく、今日に或る。
「刀の技法を球打ち道具に模す」
鍛造の技に限界が見えるゆえに。
「変わることなき鍛造の技法に苛立ちすら心に浮かぶ」
苛立ちは、機械加工という新たな技法で僅かに治まるも、限界が幾分広がったに過ぎず。
果敢な試みは、業師の技を集い、匠の世界を表す営みの「TAKUMI JAPAN」が請け負う。共栄ゴルフ工業から生まれた営み。そして、鍛造への想いも或る。
「何故、その技は変わることなく或るのか」
刀から畑仕事の道具へ、そして球打ち道具へ。造る技は少なからず形を変える。只、其の根は変わらず。
「新たな技法を、新たな姿を生み出したい」
其れを、刀の技を紐解き、球打ち道具の造る技を変える。
然れど、立ちはだかるのは根の違い。冷やして、温めて、叩いて、冷やす。翻って、叩いて、自然に冷やす。
「順路や技法が異なれば、出てくる文様も異なる」
刀は幾度も鉄を折り返し、重なり、皮鉄を造る。心鉄は数度の折り返し鍛錬で造られる。鍛錬という運びだけが同然であるのは明らか。如何に似ようとも、似て非なるもの。
「とはいえ、知ることに値打ちがあるのも自明の理」
紐解けば、何が見えるか分からずとも、何かが明らかになるはず。但し、見えてきたのは、圧倒的な逕路、技の違い。球打ち道具に「折り返し」はなく「強いる冷やし」もない。其れで生まれる外見も化粧も異する。それでも、共栄とともに「TAKUMI JAPAN」を率いる坂本敬祐が魅了されたのが「刃文」。
「『刀文』は名、そして銘を表す。球打ち道具にはそれがない。美しき字は書けずとも憧れる。畳の風情に魅了され、和の魂が宿る。そんな球打ち道具が或る世界。道具としてだけに非ず。魅せられて、誇りを持つ道具への昇華」―。
半世紀変わらぬ、鍛錬することへの苛立ち。留まるは残される。ゆえに、彼の挑みは留まることを許されぬ、球打ち道具の創り手の宿命。その宿命への挑み。其れが始まる。
神髄二 刃文の価値 美と切れ味
刀は「折れず」「曲がらず」「切れる」と三つの能があり、加え、「姿」「地鉄」「刃文」に価値が与えられる。技と美の合流が正に価値となる。
「異国から高く品定めされ、現世では魅せるものとして、価値を与えられる」
名は銘となり、残り、価値は在るが、道具としての力量は限界が或り、道楽であり、紅葉狩りや月見に類す。そして、眺めること、持つことの誉れが或る。海を渡った見知らぬ地の人々の心を打ち、残る。
「其のひとつが『刃文』。おおよそでいえば、『焼き入れ』を繰り返すことでできる文様」
そして、「刃文」は切れ味にも力を及ぼす。魅せるだけに非ず。機能美でもある。球打ち道具でいうところの、「顔つき」と「飛んで止まる」に相違ない。
其の「顔つき」、「刃文」にも好みがある。選んだのは「濤瀾刃」と呼ばれる「刃文」。「濤瀾刃」とは、江戸時代の延宝年間に摂津国(現在の大阪府)で活躍した刀工「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)が創始した「刃文」。
その「濤瀾刃」は、碁石が連続したような波型の刃文である「互の目乱れ」を大きく、加え、大波が打ち寄せるように表現。往時、そのあまりに見事な刃文は世間を驚かせたと言われ、のちに、大坂の刀工のみならず、全国の刀工にも影響を与えた。
異国にも同様の文様が在った。古代のダマスカス鋼の文様で、るつぼでの製鋼による内部結晶作用から生まれた。しかし、其の技は途絶え、現世で造れない。
いずれにせよ、「刃文」が球打ち道具に通ずるものが或る。それが美であり、能である。
「それを現世の技で球打ち道具に模す」
技も異する。手順も別様。それを覆す手立ては、連綿と繋いできた時間とともに育てられた独創性と数多く造られてきた価値が或るもの。其処に新たな価値を生み出させる。異する刀には、ない方式。球打ち道具だから或る。其れが「型」である。
神髄三 「刃文」を模す半世紀前の型
「刃文」を模す技は、地鉄を黒く、「刃文」を白く。黒は硼素(ホウ素=ボロン)を含んだ鍍金、そして「刃文」は綿やフェルトで造られた「バフ」使う。加え、砂を充てる「サンドブラスト」。試行錯誤もある。
「柔らかい黒の鍍金、光る黒の鍍金は、土に当たると削れる」
要は使えば使うほど美が薄らいでいく。硼素の鍍金は強く、美を失わない。
型も選んだ。半世紀前の、この十年使っていない型。
「『波紋』を模すには球を打つ裏側が野箆坊がよい。ゆえにマッスルバック、いや、ブレードアイアンが適す。だが、近年のブレードは二段に肉が盛られている」
創業から六十五年の共栄には、四十年以上勤続する岡村勲工場長も正しい謂れを知らぬ型がある。選んだのは、
「往時、『カワイモデル』といわれていた型。内輪では『K1』と呼ばれる。おそらく『K』は共栄の『K』。但し、何ゆえ『カワイモデル』と呼ばれたかは、誰も知らぬ」
底の幅が広く平らで、大柄。「刃文」を模すには、野箆坊で面長が良い。波打つ力強さを表すに要する長さ。されど、現世の球打ち道具とも形が異する。
「顔つき、顔の傾斜角、底の形は往時の流行り。重さの違い。それぞれで手間は倍」
顔つきは現世の顔つきを、ひとつひとつ手作業で書き写す。顔の傾斜は番手をずらし、底の形は今風に三面を落とす。重さは大抵、顔の面で整えるが、現世の顔つきにするには、輪郭で落とす。
「通常の削りでは十五g。それを底で五g、輪郭で十g、通例の研磨で十五g。それでいま風に造り上げる」
刀は一振り。それぞれ。しかし、球打ち道具は番手が在る。そして、使い手は数多く、一振りというわけにもいかず。同じものを数多く造らねばならない。
「顔つきを揃え、番手はそれぞれ。そして、それを組にして差し出す」
其れには、大きく、裏が野箆坊。
「大は小を兼ねる」
半世紀前の誰も正しい謂れを知らない型。半世紀を超える営みゆえに、成せる新たな試み。そして限られた鍛造への挑みでもある。
其処には古きを知り、然れど、在るものしかない場で、工夫だけでもなく、何かを生み出す知恵が或る。限界ゆえに。想いは海を渡ることだけに非ず。残していくための手練手管が或る。
神髄四 古き良きを知り知恵を与える
「枯れた技術の水平思考」という言が在る。何も新が必ずしも善に非ず。在る技を駆使する。それが鍛造を辿れば刀。物語が在り、価値が或り、そして魅せる。
「古からあるものに対して、造る技をよせる」
日ノ本に古くからある技を鍛造の球打ち道具に落とし込む。古き良きを知る。
「要は知恵」
其れが生み出すものが、海を渡れば価値となり、日ノ本の物造りが、刀の如く、秀逸とされる。
坂本が知恵を巡らし、半世紀を超えながら、根が変わらない鍛造を変えていく。
「球打つ道具に、残るものがないゆえに」
刀は名が或り、銘として残る。ただ、球打ち道具に銘はない。
球打ち道具は常日頃、進化なり、成長なりを求められてきた。但し、其の手法である鍛造の根は変わらない。限界を感じることは、諦めることに非ず。鍛造に四六時中想いを馳せるが故に、知恵を与える。
「鍛造とは何か」「共栄ゴルフとは何者か」
解は球打ち道具の鍛造屋。但し、それ以上の解は坂本にも見えてこない。単純が故に、限界も見える。
「知恵とは古からの技であり、其の技を練り続けること」
今日現在、硼素(ホウ素=ボロン)を含んだ黒い鍍金も、綿やフェルトで造られた「バフ」も、砂を充てる「サンドブラスト」も、新たな技ではない。但し、魅せることは叶う。
魅せるのは刃文だけに非ず。刀は上段に構え、縦に振り下ろす。故に刃文を模したヘッドに記された意匠は、横ではなく縦。振り下ろす、そして切れ味を醸し出す方向で魅せる。そして残す。
匠の技と在るものの価値。其処に知恵を注ぐことで、限界を心から追い出す。匠の集団の挑みが、新たな神髄を創る。